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[ 二つの合理性 ]・・・・・2001
熊本アートポリス「わたまち」に参加して
2001年度日本建築学会大会 研究計画部門PD資料
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ワークショップという住民との対話を通じて公共の建物が計画されるとき、一般に目的がはっきりして常識的な価値観によってその方向性が決められることが多い。「○○ができる」、「明るい○○」、「メンテナンスがかからない」云々といった合理性を満足するための要望が主なものだ。これを仮に目的合理性としよう。
一方で芸術家でもある建築家は、必然的に前衛つまり常識を越えたところに自身の存在意義を見いだしているし、さらに建築自身がもつ作品としての合理性を守られなければ良い建築作品とはならない。これを建築的合理性とすれば、それは住民との対話によってゆがめられる可能性もあるわけだし、常識と前衛はそもそも異なる方向を向いている。二者は本質的に相容れないのではないかという素朴な疑問が涌く。
しかし、趣旨説明にあるように「建築の前衛をフォームそれ自体でなく社会性の中に求めざるをえないといった、現代的様相」がアートポリスにおける「わたまち」の試みを後押ししたとすれば、これら二つの合理性を維持しながら、これまでの前衛のあり方を変容させることができるかどうかが問われていることになる。

私たちは昨年ほぼ1年にわたって小国町での「わたまち」に参加した。小学校の体育館改築という公共の仕事、またワークショップ形式で基本構想を固めてゆくという作業は、自分たちにとって初めての経験であり、とても貴重な時間を過ごした。
まずはじめに小国町に行って役場担当者から聞いた話では、新体育館に対する住民の要望はかなり規模の大きなもので、敷地も既存校舎の周囲の敷地を買い取って造成してという拡大志向のものだった。地域住民がそれぞれ漠然とした夢を語るうちに話が大きくなっていたようだ。
しかしワークショップを重ね、様々な角度から問題が議論されるにつれて、計画のプログラムは徐々に予算的にも機能的にも必要充分なムダのないものへと収束してきた。ワークショップでは(体制側が運営主体という実態はともかくとして)少なくとも建前上は参加者の立場が平等である。
こうした「公共圏」の中でのコミュニケーションは参加者に暗黙の公共心を芽生えさせ、無茶な主張や要望が徐々に退けられてゆく過程を見てきた。こうした事実は公共施設計画の合理化を促す意味で「わたまち」のもつ明らかな効用である。ここで、少なくとも目的合理性は「公共圏」の中で保障されたことになる。
ただ気がかりなのはその後だ。自分たちにとって建築家の仕事で重要なのは、建物を作ることによって人々に感動を与えることができるかどうかである。そのためには、住民とのワークショップを通じて得られた様々な与条件を素材としながら、プログラムと形態の両面から創造力を発揮することで、さらにはこうした素材を扱いながらも破綻しない建築的合理性を発見することで、既成概念を乗り越えた提案を行うことが必要になる。そこで発揮される創造力が卓越したものであれば、建築家は前衛でありつづけるのではないか。
つまり、前衛のよりどころを形態自身の力に求めるのではなく、与条件から形態へと跳躍する際の創造力の使い方に求められるのではないか、そこに二つの合理性を結びつける可能性を感じている。