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新建築月評1月号
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1年間月評を担当することになったが、掲載作品はほとんど実際に見ることがかなわない。できるだけ想像力を逞しくしながら、少々勝手な解釈でも誌面の論点を拡張してゆくような批評を心がけたい。
さて、12月号の特集「長屋再考」である。のっけから足立氏は「住人同士のコミュニティを想定した共有空間を豊かに演出するようなことは...幻想にすぎないのではないか。」「個々の住戸が、集合住宅の部分としてではなく、都市の部分であるように作れないだろうか。」と問いかけている。これまで、一般的な分譲集合住宅では共用部管理の問題から、区分所有法という枠組みの中で半ば強制的なコミュニティを作ることが前提となって計画されていた。さらに賃貸集合住宅の共用空間計画についてもこうしたコミュニティ像が前提となることが多かった。しかし、すでに社会の現状はそうではない。一人一台の携帯電話が家族という枠組みを越えて個人と社会をつないでいるように、個人の生活は匿名性の高い社会や都市空間とダイレクトに接続しているという認識である。全く同感だ。だとすれば共用部を持たない長屋型集合住宅はこうした社会の状況にうまくはまっているはずだ。
特集の中で紹介された長屋作品群はどれも東京都心部の事例となっている。一般的な集合住宅が成立しにくい条件の厳しい敷地に対して、建築家のデザイン上の工夫が随所に表れた秀作揃いである。都市の狭間に無理矢理進入した代田の切り通しは、最大3層メゾネットの連続型住宅ながらも全体としては巨大な生き物のような佇まいを見せる。構成は長屋だが見かけは一戸の豪邸といった感のあるtrioは、非常に論理的かつ効率的なプランの割には変化に富んだファサードを作り出している。隣接する3本の玄関アプローチという苦しげな仕掛けを作ってでも直接道路に面した玄関を設け、最大4層メゾネットという大胆な構成をもつ南青山アソートメントハウスも、外側に対しては非常に均整がとれてまとまったファサードをまとっている。こうした事例はいずれも既存の連続型住宅のイメージが表出するのを避け、一つのデザインされたボリュームとして建物を表現することで作品のアイデンティティを成立させている。そしてこのことが不動産市場では人気薄といわれる連続型住宅に新しい可能性を見せている。つまりデザイナーズマンションブームに乗って売り出すにしても、マンションの顔と存在感を表現するデザイン上の全体性は重要なのだと思う。
東京モーターショーで紹介されたというトヨタの「PM」は携帯電話同様一人一台のモバイルツール(移動手段という意味での)である。こうした情報技術と流通効率の発達によって個人の活動範囲はますます拡大しているわけだが、それによって相対的に地縁という結びつきは弱くなる。その場合のデメリットは何かと考えたとき、一つは生活情報の入手であり、もう一つは地域のセキュリティ維持である。大月俊雄氏の「コレクティブリビング」の事例は、こうしたデメリットを補う仕組みとして非常に興味深い。子育て世代が集まった自然発生的な食事会なのだが、家事労働の軽減と生活情報の交換が行われ、互いが顔見知りになることによる体感治安の向上にもつながっている。集合住宅というハードな枠組みに強制されたお仕着せ的なコミュニティ活動ではなく、ソフトウエア的な仕組みは、とても簡便でフレキシブルでドライである。建築的な応答も含めて今後の展開に可能性を感じさせる。
さて、冒頭インタビューに登場したレム・コールハースの活躍は今や留まることを知らないが、彼の出世作ネクサスワールド レム・コールハース棟は、まさに低層高密度な長屋型集合住宅のハシリだった。実は、そこには彼が幼少期を過ごしたアムステルダム南部地区の典型的集合住宅(1920-30年代)の影響が見て取れる。当時のアムステルダムでは各住戸の玄関が直接通りに面していることがステイタスだった。これは従前のキャナルハウスの伝統に端を発するものだが、20世紀になって建物が大型化・高層化してきても各住戸への専用階段をかなり無理矢理に作ることで、最高5階建ての長屋(?)が実現していたのだ。共用部を持たない集住形式は、アナーキーになりがちな共用部のメンテナンス問題もうまく解決していたわけだが、同時に各住戸の玄関ドアが集中する巨大なゲートは荘厳さとアイデンティティを建物に与えていた。こうした長屋型集合住宅の管理と顔の問題についての知恵は現代でも十分通用するように思う。