text

text

プライバシー解放のすすめ

ネクサスワールドスティーブンホール棟での事例から

「Live 福岡/ひと・いえ・まち」 財団法人福岡県建築住宅センター、 1999年1月発行

outline


私たちの生活には、他人に見せてもかまわない部分と、見せたくない部分がある。伝統的な日本の住宅にも、ハレ(晴)とケ(褻)の両面、たとえば座敷と茶の間のような表裏の関係があったし、英語では、空間の性質を表すのにパブリックとプライベートという言葉がよく使われる。つまり、私たちの生活には必ずこうした2面性があって、それをバランスよく使い分けることを人々は心がけてきたわけだ。

日本の住宅計画については、高度成長期以降、生活のプライバシーを守る方向にずっと進んできた。これは経済成長にともなって、アメリカ流の個人主義的考え方が浸透してきたことと無縁ではない。しかし、プライバシーや個人の権利の主張にあまりにこだわることが、パブリックとプライベートのバランスを崩してきているように思えるのは僕だけだろうか。

プライベートな部分のみに気を取られて、それ以外のパブリックな空間が、実は取り残された薄気味悪い場所になってないだろうか。それが結果として、プライベートな空間の生活環境を悪化させてないだろうか。少なくとも僕には、いくつもの疑問が浮かんでくる。

バブル全盛期に計画された一帯のマンション群は、ネクサスワールドと名付けられ、世界中の有名建築家が設計を担当した。当時は非常に注目を集めた実験的計画だったが、タワーを残して第一期計画の販売がほぼ終了したと同時にバブル崩壊。いわゆるバブルの落とし子になってしまった。

生い立ちから計画まで、全てにおいてユニークなマンションだが、この計画は建設後7年を経て、これまたユニークな都市的コミュニティを醸成してきている。(写真1)

写真1 スティーブン・ホール棟全景。2階に池のある4つの空間を挟んで、櫛形状に建物が配置されている。


視線を向けること、視線にさらされること



どういうわけか最近、殺人や強盗などの物騒な話が新聞紙上を賑わすことが増えているように思う。それじゃあというわけで、プライバシーを守り、安全を確保するためには、いきおい住宅をできるだけ外部から遮断しようと考えがちだ。マンションなどでも、共用廊下は住戸から見えないようになってるし、たまに開いている窓には鉄格子がはまっている。また、郊外住宅地などでも夜は雨戸を閉めている家庭も増えつつあると聞くと、ちょっと待てよという感じがする。

これが本当に正しい方向なんだろうか?閉鎖的な住宅は、外から中が見えないだけでなく、逆に中から外も見えないわけで、それは結果として誰の目も届かない街路や共用空間を作り出すことになってしまう。これじゃあ、自分の家のドアの外に一歩出ると、そこには怪しく危険な場所が広がってる...なんてことになりかねない。

アメリカの環境デザインの権威、クリストファー・アレグザンダーは著書「パタン・ランゲージ」の中で窓と街路の関係について次のように書いている。

窓の見えない街路は、盲人になったような不安を覚える。また同様に、街路側に全く窓のない家は居心地が悪い。街路に向かう窓は、屋内生活と街路生活との間に独特の関係を生み出す。

彼がアメリカ人だからと思ってはいけない。日本でも最近の新聞に「児童が公園で痴漢や盗みなどの被害に遭っている」との記事が載っていた(朝日新聞1997年)。特に他人の視線の届きにくい団地の北側に面している公園などで犯罪が多発しているらしい。

実はこうした視線とセキュリティの関係は、犯罪先進地域の欧米では既に常識になっていて、よく「窓とは街路を照らす明かりである」などと言われている。これは、窓は夜間の照明として街路を照らすという意味と、人々の窓からの視線は街路上のセキュリティーを守ってくれるという意味を含んでいるのだ。

写真2(左)  2階廊下は5つのトンネルをくぐってゆく。数多くの窓が廊下を見下ろしている。

写真3(右) 5階廊下は空に向かって開いていて、廊下の両側に住戸がある。居住者は長屋みたいな雰囲気という。


一方で、玄関ドア以外からは各住戸へ直接入れないので、実質的なセキュリティに問題はない。おそらく安心感が得られるのは、必要に応じてカーテンなどで視線をコントロールできるからだろう。もちろん逆に、自分たちの部屋も場所によっては外からよく見えるわけで、こういった場所にいるときにはそれなりに人に見られても恥ずかしくないように気を使っている。

こうした行動は、女性が外出するときに化粧をするのと似てるかもしれない。見栄を張るという言い方はだいたい悪い意味で使われるけど、生活を生き生きさせるには、こうした見栄がある程度は必要なんだと思う。 (写真4・5・6)

写真4 5階廊下夜景。窓に灯った明かりが見えることで、何かしら安心感が得られる。

写真5 街路に面した窓辺の飾り付けの例

写真6 廊下で遊ぶ子供たち。普段は明るい5階にいるがこの日は雨で3階にいた。


自発的パーティーというコミュニケーションの形式



sh棟に特徴的なことに、居住者の親睦を図るための年3回のパーティーがある。春と秋のワインパーティーと子供たちのためのクリスマスパーティーである。

システムは簡単。一応幹事がいて、日程を決めたら飲み物代だけ事前に徴収し、食べ物とパーティに必要なセッティングつまり、椅子やテーブルや照明器具なんかはみんなで持ち寄ることになっている。全くの自由参加で、来たい人が来ることになっているが、sh棟に越してきたばかりの人にはできるだけ参加してもらって、顔見せの会も兼ねている。

しかし、集会室を持たないこの建物の問題はパーティー会場。それには、ここの特徴であるやたらと広い廊下や共用部分を利用しない手はない。ということで、いつもは3階廊下か玄関ロビーが使われている。

最初は2階や5階の廊下も使われていたようだが、雨が降ってもいいようにと今の場所に落ち着いたようだ。普段はどう見ても無駄に見える3階廊下の出っ張りは、こういうときに飲み物や食べ物を置くコーナーとして活躍する。設計者もさすがにこれは予測してなかっただろう。(写真7)  

写真7 ワインパーティーの風景。12月で寒かったので、エントランスホールを使った。



そもそも最初は、まだ居住者が少なかった頃に、お互い寂しいからという理由ではじめられたようだが、現在では年中行事としてすっかり定着している。ただこれも明文化されたものではなく、あくまで居住者の自主性に任せられている。最も、いつも言いだしっぺになるパーティー好きの人たちがいるみたいだが...。

よく考えてみると、このパーティーは現代的な近所づきあいのあり方として非常にうまいシステムなんだと気づく。うちのように子供のいない世帯にとって、またマンションを仕事場的に利用している人たちにとっては、一般にほとんど近所付き合いをする必然性がないわけで、これは近所の人たちと話をするいい機会を提供してくれている。

また、従来の自治体活動のような強制力はないので、都合の悪い人や来たくない人は参加する必要もなく、現代のドライな人間関係の中でも十分活動が成立する。それでいて、パーティーに出席する限り、自然とマンション内の大部分の人と顔見知りになるので、日常生活の中で一定の安心感を得られるのだ。

今や共働き世帯はますます増加し、現代人の趣味や社会的活動のネットワークもほとんど近隣とは無関係になっている。近隣に関係があるのはせいぜい小中学校区だが、学校選択の自由化が一般化すれば、それすらも怪しい。つまり、日常生活が近隣と関わらない多くの人々にとっては、従来型の濃密な近所付き合いをする時間もなければ必然性もないのである。

既に一般的なマンションでは、従来自治会が行っていた清掃や草刈りなどの活動は、管理会社が代行しているし、お金を出せばプロのセキュリティ会社も雇える。しかし、いくらこうした組織や設備に頼ろうとも、回りにどういう人が住んでいるかも知らずに生活の安心感は得られないだろう。このパーティーみたいな最低限のコミュニティー維持システムは重要な生活防衛手段なんだと思う。

もちろん、はじめてパーティーに参加し、コミュニティの中に入ってゆくには、見知らぬ人の前に自分を放り出す勇気が必要になる。しかし、この小さなプライバシー解放の勇気は、その後の生活のストレスをかなり和らげてくれるはずだ。パーティーというきっかけは、最初の背中の一押しになっている。



マンションの敷地に対する「権利」と「責任」



「当マンション関係者以外の方の立ち入りは固くお断りいたします」(写真8) という看板が近くのマンションの庭園への入口に立っている。

このあたり全体のランドスケープ計画からして、居住者にとって、あるいは近隣の人たちにとって、庭園へどこからでも入れた方が明らかに便利がいいはずだ。だけど、どういうわけかそうはなっていない。

またもう一つ「ここにのぼってあそんではいけません」という看板が、どう見ても子供の遊び場になりそうな巨大なオブジェ(陸に上がって化石になった鯨のようだが)の回りに立っている。(写真9・10)

そんな看板を立てたところで、もちろん子供は登って遊ぶに決まっている。そして、わざわざオブジェの回りに打った杭や柵が、子供たちにとっては逆に危険性を増しているようにも見える。

この種の「いけません」看板はどこでもよく目にするものだ。だけど、これはどういう意味なんだろう。おそらくは、この土地は自分たちの所有物だから、一見公共空間のように見えるけど、「権利」のないよその人はこの場所を使ってはいけませんと教える意味。あるいは、この場所の管理者にとって、だれか関係のない人が入ってきて何か問題でも起こされたら面倒なので、とりあえず「責任」はこれで回避しましたよという免罪符的意味。  

写真8 立入禁止の看板。ロープも張ってあるのでかなり強い意志表示になっている。

写真9 庭園と鯨?のオブジェ。手前はもう化石化しているが、奥のはまだ生きているようだ。実際よく子供たちが登って遊んでいる。


うがった見方かもしれないけど、まあ多くの場合は後者の意味合いが強い。だって本当に入れたくなければしっかりした柵を作ればいいし、オブジェが危ないなら最初から作らなければいいからだ。

一般に、管理者にとってもっとも恐ろしいのは「責任」だというのはよくわかる。しかしここでいう責任とは、もちろん「責任」を取らされるというときの「責任」であって、「責任」ある行動というときの「責任」とは意味が違っている。「じゃあ、この使いにくく、環境を悪くしたことに対する「責任」はどうするんだ。」と叫んでみたところで、そんな責任は問われたためしがない。不思議なものである。

結果として本来公的なものとして使われるべき空間が、こうやって所有者(あるいは管理者)の論理から個別の空間に分断され、すべての人にとって使いにくく不便なものになってしまっていることがよくある。

もちろん、そこには具体的な運営上の問題も数多くあるだろう。しかし、よりよい環境を得るためには、少しプライバシーというよりはプライベートな空間を解放して、お互いに公共の利益を考えるほうが、結局は得策なんじゃないだろうか。

 

写真10 オブジェに「のぼってはいけません」看板



日本は民主主義国家のハズである。ということは、私有財産の使い方を決める「権利」は個人にある。そしてさらに、パブリックな部分の取り扱い方を決める「権利」も市民にある。

もともと、パブリックつまり公的なモノとは社会をうまく運営してゆくためにプライベートな部分を少し削って、みんなが持ち出すことで成り立っている。プライベートな部分だけを守ってあとは知らないよでは済まされないものだ。そしてこのパブリックとプライベートをうまく使い分け、よりよい居住環境を作ってゆくことこそが、市民の「責任」なんだろうと思う。