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新建築月評1月号

新建築社 No. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

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今回は墓や教会を始めとして生と死に関わるものが多かった。最近の風潮として、建築メディアでこうした重いテーマを取り扱うことが少なかったように思うので、その背景にある建築家の考え方も含めて興味深く読んだ。

香山壽夫氏による3つの教会は、どれもどこかしら懐かしさを感じさせる建物だ。素材感のある木や石を室内空間に多用し、高窓からの光を白い天井や壁を介して室内へ導き入れる手法が、往年の木造教会建築を彷彿とさせるからかもしれない。「日本基督教団金沢協会」では、切り妻屋根や外壁のリブ付き押出成形セメント板が木造建築のスケール感を保ち、礼拝堂の鉄骨架構もまた木造のように華奢に表現されていて、木造建築の雰囲気を作り出すというデザイン上の意図が感じられる。しかし、それによってできあがった空間を木造主体の「旅人の聖堂」と比較すると、やはり木の存在感に大きな差があるようで、鉄骨の架構は少々軽やかすぎる印象を持った。いずれにしても、高天井から空間を包み込むような光が落ちてくる明るい室内は、宗教空間における生きる希望や喜びを直裁に表現している。香山氏は「宗教建築と公共性」の中で、宗教活動をまちづくりや市民参加型の公共建築とつなげて論じているが、この明るく親しみやすい教会はまさに市民のための健全な公共建築という理念を具現化しているようだ。
「安養寺客殿・庫裡」もまた、宗教建築ではあるが明るく現代的な建物だ。ここでは増築された建物の高さを低く抑えることで、伝統的な本堂の意匠と対立しないような計画手法が取られている。個性を主張しすぎないモダニズムの建物が歴史的建造物と共存可能であることを示す好例だが、地域との新しいつながりを求めたという建物のコンセプトもこの明るい寺院建築を成立させた要因かもしれない。

一方、一連の墓碑は死者のための施設だが、むしろ生者が死者を悼み、純粋な気持ちで死という忌み嫌うべき現実と向き合うことで、翻って生への力を得る場であるといえる。生を意識するということは、自分たちが生きている時間を意識することだ。「合葬墓の墓参所」の水盤ガラスの中に気泡に閉じこめられた時間を、「赤瀬川家の墓」の土マンジュウとその上の盆栽に凝縮された時間を感じた。

日光霧降・マーブルハウスで語られた生と死は、変化する生身の肉体と永遠の美を手に入れた彫刻として対比されている。古い洋館にデザインの全く異なる増築をおこなうことで、建物に新しい命を吹き込んでいるが、白と黒という対比的な色を使った構成は、生と死の対比的イメージに通じている。それにしてもこの建物には不気味さが漂う。洋館がもつ歴史の重さがエキゾチックな未知の世界を暗示し、林立する大理石像が死者のイメージに結びつくからか、この設定はドラマなどでも不気味さを演出する定番セットである。設計の過程の中では鏡という装置を使って像と鑑賞者を対峙させるアイデアがあったというからもっと怖いのだが、実はこうした環境の中に身を置くという経験は、まさに過去との対話、永遠の美=死との対話という高度に精神的な営みにつながっているのだろう。そこには企画者と建築家の強い意志が感じられた。

玉川田園調布共同住宅は、昨今の明るく開放的な「デザイナーズ」マンションとは全く異なる、重みのある陰を持った建物だ。さほど広くない地階中庭の写真は、この建物がぼんやりとした闇の部分を持っていることをうかがわせる。生を感じさせるというわずかながらの火と水と緑は、死のイメージともつながる闇との対比の中でその印象を鮮烈に際だたせている。「命があるということは闇や死といった負のイメージと常に隣り合わせの、ある緊張した瞬間である。」という堀部氏の言葉はとみに哲学的だが、住宅という日常的な空間に闇や死という負のイメージを持ち込み、記憶を蓄積させることが重要なのだという建築家の確信が見える。

「蜂の巣の無数の小孔の中に、空間は時間を凝縮している。....空間の中に、われわれは長期の滞留によって具象化された美しい持続の化石を見いだすのである。」哲学者ガストン・バシュラールは「空間の詩学」の中で、空間と思い出の関連性について分析し、屋根裏部屋、地下室といった家の中の隠れ家=陰の空間がもつ恐怖のイメージが思い出を豊かにすることを解説している。社会システムの複雑化に伴って、とかく闇の部分を隠蔽しがちな現代社会にあって、生と死という人間の本質的な部分に立ち返り、人間の記憶を蓄積しうる空間を作ってゆくという作業の重要性を再認識すべきかもしれない。