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新建築月評1月号
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不思議な感じのする表紙だった。ニューヨークの落ち着いた美しい街並みの写真は、曇り空ということもあってどことなくセピア色の懐かしい写真を連想させる。もし louis vuiton 1 east 57th の窓に灯りがともっていなければこの写真が建物に焦点を当てたものだとは分からなかったろう。それほどに青木淳さんのデザインは街並みにとけ込んでいる。ヒュー・フェリスの水晶の束としての摩天楼を意識したという。少々抑制が利きすぎて青木さんらしい楽しさが後退しているようにも思えるが、デザインの崇高さを回復するというその意図はニューヨークという街に対する敬意と建築家としての責任感を見た。
「建築家の社会的責任を考える」は、現代日本の建築生産システムの問題点に迫ろうとする興味深い討論だった。建築家のゼネコン依存体質とゼネコンの機能低下の問題は特に最近表面化してきているように思う。これまでは建築生産に関わる部分については責任の所在が不明確なグレーゾーンになっていたけど、これも国際的な基準にそって整理される方向にある。日本建築家協会の建築家資格制度や日本建築士会連合会の専攻建築士制度などは日本の建築家制度を国際レベルへ引き上げようというものだが、それを実のあるかたちで実現してゆくには、これまでゼネコンに依存してきた部分を建築家サイドで担ってゆく覚悟が必要になるだろう。しかしこれとて責任に見合うかたちで設計監理料が適正に評価されなければ絵に描いた餅になってしまう。建築家という個人の能力だけでこうした状況に対応するのには自ずと限界があるから、技術的、制度的、はたまた政治的に建築家をバックアップする専門家組織の体制が求められている。建築家にとってはある意味危機的状況だけど、おかしくなっているシステムを再構築するチャンスでもあると感じた。
議論の中でも出ていた建築の複合化と大規模化の例として「日本橋1丁目ビルディング」がある。六本木ヒルズほどではないにしろ、この建物は大きい。ワンフロア3,000m2というスケールといい、100,000m2という建物全体のボリュームといい、どうも自分たちの感覚からは想像がつきにくい。航空写真を見ても、明らかにまわりに建つフツーのビルとは次元がちがっている。なるほどこれは、社会資本の効率利用ということからするといいことかもしれない。床面積を集約化することで、もっともコストのかかる外皮や縦動線の割合を少なくできるし、内部の人工環境を作り出すシステムは、極限までエネルギー利用を効率化できる。だけど、それでも何か妙な違和感を覚える。ミースの描いたユニバーサルスペースあるいはブラザーイが描いた完全な人工環境下の生活という20世紀的な「夢」が現実になってきたという20世紀人間特有の違和感なのだろうか。
内部のトレーディングルームの写真を見るとどこか近未来の工場のようだ。高い天井を均一に照らす非常に効率的な照明の下に不思議とメカニカルなデザインのディスプレイが整然と立ち並ぶ姿がそう思わせるのか。なぜか映画「未来世紀ブラジル」のオフィスが重なって見えた。経済原則に従った隙のない効率性が管理社会を連想させるのかもしれない。
管理ということからすると、「特別養護老人ホーム桜の里」は管理型建築の理想型とされたパノプティコンの平面計画を援用している。しかし、その歴史的意味を転換して非パノプティコンを目指すところに、桂英昭さん一流の反骨精神のようなものを感じた。実は高齢者にとってプライバシーはさほど重要な問題ではない。プライバシーを気にするものにとって否定的な意味をもつ監視が、高齢者にとっては安心感をもたらす見守りにつながる。しかもそれがデジタル技術による遠隔操作でなく、直接的な視線によって担保されるところに、人間的で生き生きとした関係が生まれているように思う。それにしても、掲載された高齢者施設はどれも楽しく暮らしていけそうな明るく心休まる秀作揃いだ。こうした施設は昔の収容施設的なイメージとは完全に逆方向へと向かっているようだ。若いうちに効率的なオフィスでマシーンのように働けば、穏やかで安寧な老後が待ってるよということなのか。それともそれは「ブラジル」の主人公が見ていたような「夢」なのか。