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新建築月評1月号

新建築社 No. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

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「いま建築家は何をデザインするのか」では、野城さんのデータに裏付けられた状況把握が興味深かった。まっさらな敷地に既存のビルディングタイプを作るという、これまで建築を成立させてきた状況がすでに完全にシフトしていて、既存のストックをどのように使うかという問題のほうが重要になっているという示唆である。

日本もそういう時代だよねと納得したあとで「カタール・エデュケーション・シティ」のマスタープランを見てしまった。いかに裕福とはいえ、人口60万人の国家にこの施設群というのはどういうことなのか、ちょっと想像を超えている。小さいながらも一つの国として世界トップレベルの教育を豊かな環境の中でおこなおうという強い意気込みが伝わってくる。 「ブリッジ・アーツ&サイエンス・カレッジ」の外壁はアラベスクにも似た魅力的な幾何学文様によって覆われている。六次元立方体の二次元投影幾何学模様とはいったいどういうことなのか不勉強なわたしたちには想像もできないが、均一のように見えながらもパターンが不規則に変化してゆくありさまに魅力を感じた。外部環境と内部環境の調停をするためにダブルスキンを用いているのだが、機械的で複雑なシステムではなく、非常にシンプルな手法を用いながらデザインも洗練されている。幾何学模様のスクリーンがベールのように重なり合う様や、白いひかりで包まれた内部空間もどこか幻想的だし、さらには女性の黒と男性の白という衣装の色までが空間をより抽象的で神秘的に見せている。白と黒の論理で構成されたプランニングは、数多くの中庭の周りに各種の教室などがイスラムのカスバのように展開している。この地の伝統をもとにしたモザイク状の空間構造が、どこかヒエラルキーのない現代のネットワーク社会を連想させているようで興味深い。

「モザイク的方法の可能性」では、統制と生活あるいは全体派と部分派という2項対立を中心に展開する隈さんの文章を興味深く読んだ。「東雲キャナルコートCODAN3街区」で特におもしろいのは、計画上はユニットタイプを多様にして「攪拌」するという部分派的手法をもちいながら、表層に関してのみきめ細かな統制をするというアプローチをとったことだ。一般的には統制が全体派、生活が部分派と結びついてきたので、こうしたやり方を意識的に使う人はいなかったかもしれない。厳格な機能主義者からすると一貫性がないと批判されそうだけど、現代の生活パターンの多様化と居住空間のアイデンティティ向上ということに応えたとすると、かなり素直な回答だと思う。ただ、何しろ建物が高層なので、どうしてもきめ細かさよりも、モダニズム的な手すりの水平線によって全体が統制された印象の方が強くなりがちだ。モダニズムのデザインというのは、オブジェとしての建物によく似合う。しかし、街が高密・高層化すればするほど、デザインのシャープさが無機的な表情に変容するように思う。やはり容積率400%というそもそものプログラムがきついんじゃないだろうか。

さて、今月も先月同様表紙の色調が渋いのだが、趣はかなり違っていた。派手なジェスチャーをした建物をモノクロ写真にすることで、おとなしめの印象を演出しているからだ。たまたまこの「国立国際美術館」は先日見にゆくことができたのだが、エントランスの上に覆い被さる巨大なステンレスパイプにとにかく驚かされた。これはいったいどういう意図で作られたのか、どうしても理解できなかった。建物自体を地下に埋めることで周辺環境との調和をはかる手法自体は、とてもわかりやすい良識的計画である。それならなおさら、こんな大げさなオブジェをとりつけるというのは本末転倒ではないか。しかもステンレスパイプは構造体でもなく、地下に秘められた内部空間との関連性もない。 「都市に開かれた美術館」という議論の中で、ホワイトキューブとビルバオ・グッゲンハイム美術館の話が出ている。なるほどその両者の矛盾点を解決して、外見は華々しく、中身は実用的にという意図だったようだ。ここでは内部と外部の関連性はむしろ分断されることがミソなのか。はてこの話は、どこかしらショッピングセンターの作り方に似ている。中身は機能第一でどんな商品やブランドも陳列できる白いハコを提供し、外見に華々しい広告をというやり方だ。芸術作品も商品であることから逃れられないのが現代アートの現実だとすれば、美術館のあり方自体がその批評なのかもしれない。