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新建築月評1月号

新建築社 No. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

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「集合住宅をユニットから考える」の山本理顕さんのインタビューでは、SOHOのように仕事を住戸内に持ち込むことで、閉じたプライバシー単位となってしまった住戸を社会に開いてゆく試みについて語られている。天津市のプロジェクト「伴山人家」のなかで示された閾という概念は、この考え方をより拡張させたものだが、「熊本県営保田窪団地」以来集合住宅と家族あるいはコミュニティの関係を着実に考え続けてきた山本さんのスタンスには説得力がある。

住戸を社会に開くということは、近代建築の理念である機能主義の考え方を少し緩やかにしてゆこうという姿勢である。機能主義による計画は、空間の機能によって空間を分割していった方が効率的かつ衛生的だという考え方に基づいていた。住戸内の食寝分離に始まって都市計画の用途地域制度まで、こうした考え方が徹底される方向でこれまで動いてきた。しかしこの判断にはいくつかの前提があったように思う。ひとつには水回りや労働の場は、生活するには非衛生的で環境が悪かったということ。またひとつにはこうした機能的な場所にはかなりヘビーな機器設備類が必要だったために、集約した方が合理的つまり安価だったということだ。しかし、この半世紀の間の技術の進歩によって状況は大きく変わってきた。都市の衛生面での環境は著しく改善し、労働の場も生活の場とさして環境が変わらなくなってきた。機器設備類はかなりの部分が小型化、分散化され、移設や新設が非常に簡単になった。ということはつまり、機能によって建築が縛られる割合が減ってきたということだ。

こう考えると、従来の機能主義的手法を逸脱した平面計画も可能なはずである。こうした傾向は最近の集合住宅の中にも散見されるが、「船橋アパートメント」はその代表格だろう。これは単身用住居ということもあるが、3種類の異なったリビングルームと解説されているように、ほとんど従来の機能に応じた部屋の作り方をしていない。普通の部屋の一部に極小化された設備がまるで電化製品のように置かれている。あと電磁調理器とシャワーブースさえあればほとんど住戸内で煙も出ないし、床が濡れることもないので、仕上げさえ統一できたかもしれない。

おもしろいのはこうした機能主義の理念から離れつつある住宅のあり方に、昔の住宅の形式、たとえば農家や商家の間取りと共通したものがあることだ。前述の「伴山人家」の中でも西沢立衛案は廊下を持たずに中庭まわりに室が連続する形式をとっている。それが中国の四合院の伝統に乗っていて、現地ではすんなり受け入れられたという話ももっともだ。ただ、四合院には空間の意味づけにはっきりとしたヒエラルキーがあった。日本の田の字プランもそうだ。だとすると明確なヒエラルキーを持たないところが西沢案の今日的なところかもしれない。

「アトムの時代に」の中で小嶋さんは東京発の「小さな集合住宅」が商品としての「デザイナーズマンション」を突き抜ける可能性を示そうとしている。確かに建築家が小さな個人住宅や集合住宅に多大なエネルギーを投入せざるを得ない状況は、世界的にみて特殊であるだけでなく、良好な社会ストック整備という意味からしても効率が悪い。しかしその中にでも希望は見いだせるという彼の気概には勇気づけられた。現代の消費主義社会の中では、集合住宅あるいは建築家自身も商品であることから逃れられない。商品を評価するのは最終的には消費者だが、商品の本質的価値をきちんと消費者に伝達するために新建築のようなメディアの果たす役割は大きいと感じた。

それにしても6月号はエッセイから作品までとても興味深いものが多かった。集合住宅や改修など比較的堅いプロジェクトが並ぶ中で少々異彩を放っていたのが「リゾナーレ ガーデンチャペル」だ。建築というよりは舞台装置であるこのチャペルは、とても可愛らしくて洒落が効いている。クライン・ダイサム・アーキテクツの真骨頂といっていい。集合住宅という社会性の高い話をしていると特にそうなんだが、何かと生真面目で禁欲的になりがちな今の建築界にあって、この思わず微笑んでしまうチャーミングさはとても貴重である。このチャペルは結婚式という大きな買い物を演出するまさに商品である。しかしそれが参列者にとって真の感動を呼べるものになったとき、はじめて商品を越えるのではないだろうか。